働くことと休むこと

東京で開催された Ideas and Questions Cafe というイベントで私が行った話題提供の内容です。このイベントは、参加者同士で多様な視点を共有し、議論を深めることを目的としています。また、多くの参加者にとって新鮮な切り口となるキリスト教的な視点を紹介するのも特徴の一つです。英語版の内容はこちらからご覧いただけます。


今日は「どのくらい働くべきか?」というトピックです。ここで言う「働く」とは、会社での仕事だけでなく、普段あまり「仕事」と思わないようなことも含みます。

文化人類学者のジェームズ・スズマンは『ワーク:働き方全史』という本の中で、仕事を「目的を達成するために意図的にエネルギーや労力を使うこと」と定義しています。

つまり、何かをしようとすることです。ですから、仕事や勉強だけでなく、料理をする、洗濯する、掃除する、請求書を支払う、あるいは行政の手続きをするなど、日常生活で大切なことは「働く」ことに含まれます。自分のためでも、子どものためでも同じです。

さらに「将来の計画を立てる」といった一見オプションのようなことも含まれます。友達と遊ぶ予定を立てることも「なんか大変だな」と思ったことがあるなら、それは立派な仕事です。

ですから「どのくらい働くべきか?」というのは、いわゆるワークライフバランスの話ではなく、「働くこと」と「休むこと」のバランスの話になります。

たくさんいる学者の中でもスズマンは、私達が今のように長い時間をかけて仕事をするようになったのは、実はごく最近のことだと主張します。人類の歴史のほとんどは、もっとゆっくりとした生活をしていたそうです。

最近では「スローライフ」そのものがトレンドになっています。高収入や地位のある仕事をやめて、ゆっくり田舎で暮らすという生き方が「成功した人生」というイメージの新しい代わりになっています。

では、どのくらい働くべきなのでしょうか?いくつかの考えを紹介した後に、皆さんにディスカッションしていただきます。

できるだけ働かない方がいい(仕事は“必要悪”という見方)

古代バビロン時代の3500〜4000年前の創世神話エヌマ・エリシュには、人々が「仕事」をどう考えていたかについて、現存する最も古い記録があります。

重要な神の一人マルドゥクが人間を作ろうと決めたとき、彼はこう言いました。

原人(ルル)を立たせて,その名を「人」としよう
原人「人」を造り
神々の労役を彼に振り当て,彼らが安息できるようにしてやろう

そこで彼は神エアに命じてこう続きます。

(エアは)人間を造り出した
神々の労役を彼に課し,神々を自由にした
聰明なるエアが人間を創造してから
神々の労働を彼らに振り当てた

つまりこの神話では、神々が疲れたから、その代わりに働く存在として人間を作ったと言っています。神々は休息と自由を必要としていたので、その労働の重荷を背負うのが人間、というわけです。

そこから数千年経った今、多くの人が似たように感じているのではないでしょうか。

経済的自立、つまりもう仕事をしなくても生きていける状態を目指す人は多くいます。人気のサブレディット「FI/RE(Financial Independence / Retiring Early)」では、「経済的自由を手に入れて自分の人生をコントロールしたい」という人たちが集まっています。

また、マイクロソフトを辞めて地方に移住したスローライフ実践者のミーさんは、こう話しています。「何かを追いかけるのをやめたときに、初めて平和が訪れた」。

もちろんこれらの例を極端にとらえる必要はありませんが、ポイントは多くの人にとって「仕事」は休息や自由を得るための障害物、もしくは“必要悪”と見られているということです。

できるだけたくさん働くべき

一方で、できるだけたくさん働くべき、と考える人たちもいます。休むのはあくまで充電時間という考え方です。

40時間労働制を導入したことで知られる実業家ヘンリー・フォードは、こう言っています。

「人生で最大の呪いは“生活のために働くこと”だと多くの人は思っている。しかし思慮ある人なら、労働こそ人類を救うものであり、道徳的にも肉体的にも社会的にも価値があると知っている。働くことは生きるための手段にとどまらず、人生そのものを得る方法なのだ。」

フォードは自伝の中でこう書いています。「私は自分の仕事から離れたことがない。人は本当の意味で仕事から離れることはできないと思う。昼には仕事のことを考え、夜には仕事の夢を見るべきだ。」

彼はこれをすべての仕事に当てはめ、定められた労働時間を超えて働かなければ、本当の成功はないと主張するほどでした。

経済的には真逆の立場にいながら、同じように働くことは素晴らしいと考えたのがカール・マルクスです。

マルクスは『ジェームズ・ミル評註』の中で、人は働き、その成果を分かち合うことで、自分自身と他者の存在を肯定できると述べています。努力を通して、自分の内面が形となって現れ自分の存在を確かめることができ、そしてそれは自分や他人に喜びを与えるものになります。

また、働くことは他者との繋がりを生み出し、他社の人生の中に自分の居場所を与えてくれます。哲学者であり科学者でもあるマルクス主義者のロバート・S・コーエンは、マルクスの労働観を次のようにまとめています。

労働こそが人間が自己実現するための最も基本的な手段であり、自らの望む世界を創り出す媒体である。そして、労働によってこそ人は幸せになる。実に人間の本質は、自らの望みを追い求める努力にある。(マルクス主義教育哲学について)

つまり、マルクス主義者でも資本主義者でも、この視点から見ると「労働は救いをもたらすもの」と考えられています。そして休息は、理想の世界を作るための道の途中にある“休み”という位置づけになります。

キリスト教的な視点

最後に、「働くこと」と「休むこと」についてのキリスト教の考え方を少し紹介します。

聖書の最初にある『創世記』という物語では、神が6日間かけて世界と人間を創造したと書かれています。神は人間が生きていくために必要なもの、食べ物などをすべて備えたあと、休まれました。

神は第七日に、なさっていたわざを完成し、第七日に、なさっていたすべてのわざをやめられた。神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。(創世記2章2〜3節、新改訳2017)

後の聖書の著者たちは、この「神が休まれた」という考えを発展させ、「人間もまた、休むために作られた存在」と考えました。同時に創世記には、人間が神に仕える存在として、つまり「神の代理人」として他の被造物を管理する役割を与えられたとも書かれています。

つまり私たちは、神とともに、また神のために働くように作られたということです。ですので、「働くこと」と「休むこと」の両方を、神の似姿に似せて創られた人間は受け継いています。働くために休む、でも、休むために働く、のでもありませんー神が働き、そして休まれるように、私たちもその神のいのちを分かち合う存在として、働き、そして休むのです。

もしかしたら、これはユダヤ教の考え方とも言えるかもしれません、なぜなら旧約聖書の部分だからです。ですが、キリスト教ではこの考え方をさらに深めてこう教えます。

まず第一に、イエス・キリストこそが、この「働くこと」と「休むこと」の両方を完全に生きた唯一の人であるということ。

そして第二に、そのような真の働きと休みを手に入れられるのは、イエスを通してだけ。

イエスは自分の人生全てを神への奉仕として生きました、そしてそれは焦りのない平安と自由に満ちていました。ですのでイエスの弟子となる人は働くことと、休むことの両方を受け取ることができます。

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイの福音書11章28〜30節、新改訳2017)

時間の都合もありますので、それぞれの考え方をかなり簡単にまとめました。ご理解ありがとうございます。これからのディスカッションが深くなることを願っています。

Leave a comment