東京で開催された Ideas and Questions Cafe というイベントで私が行った話題提供の内容です。このイベントは、参加者同士で多様な視点を共有し、議論を深めることを目的としています。また、多くの参加者にとって新鮮な切り口となるキリスト教的な視点を紹介するのも特徴の一つです。英語版の内容はこちらからご覧いただけます。
今日の問いは文化的アイデンティティについてです。
私たちはどの程度、自分自身をある文化的共同体、つまり特定の「人々」や民族集団の一部として定義すべきなのでしょうか。
強い文化的アイデンティティを持つことは良いことなのでしょうか。
ここでは、肯定的な見方、否定的な見方、そして代替的な見方を順に見ていきます。
まず、強い文化的アイデンティティは良いものであるという考え方について。その前に、私たちが「文化的アイデンティティ」と言うとき、具体的に何を指しているのか、簡単に整理しておきたいと思います。歴史社会学者アンソニー・D・スミスは、私がここで「民族集団」と呼んでいるものを、次の6つの点で定義しています。
- 集団の名称があること
- 事実かどうかにかかわらず、共通の祖先についての神話があること
- 共有された歴史的記憶
- 多くの場合、戦争での勝利や敗北といった、最も極端な成功や失敗
- 一つまたは複数の、共通文化として人々を区別する要素
- 例えば、共通の言語、宗教、食生活など
- 特定の故郷(ホームランド)との結びつき
- 実際にそこに住んでいるかどうかにかかわらず、その場所を世界における真の「故郷」と考える
- 連帯意識
- 集団の他のメンバーに対する帰属意識や相互の義務感
強い文化的アイデンティティ
では、人々が自分の文化集団を強く意識している社会とは、どのような姿をしているでしょうか。
- 人々は共同体の中で、明確で、ある程度固定された役割を持ちます。人は家族の中に生まれ、特定の町や地域、国の一員となり、共同体の他の人々は、その人が常に積極的な一員であり続けることを期待します。
- 自分よりも大きなものに属しているという感覚があります。これによって人生の目的意識が十分に与えられ、この種の社会では、多くの人が「自分の人生は何のためにあるのか」を深く考える必要を感じません。
- 人々がほぼ同じ期待の枠組みの中で行動しているため、社会的なやり取りは円滑で、社会全体は安定しています。道徳的・行動的な価値観も安定しています。
- 社会は、受け入れられている慣習を高度に洗練させていきます。基本的に、この種の社会は「すでに良いと考えられているもの」を徹底的に磨き上げます。料理や建築方法のような実用的なものもあれば、芸術や社会的作法のような抽象的なものもあります。こうした要素が、その社会の独自性を形づくることがよくあります。
- 行動は共同体によって監視され、人々は良い評判を保つよう動機づけられます。合法・違法というよりも、周囲の人々がそれを善いと見るか悪いと見るかが重視されます。
これらが主に肯定的な側面です。一方で、次のような点も見られます。
- 集団の期待に応えなければならないという強い圧力。
- 正義や能力といった原則よりも、自分の内集団を優先する偏り。典型的な例が、友人が車で歩行者をはね、重傷を負わせたという仮定のシナリオです。もし法廷での証言によって友人が処罰を免れるとしたら、あなたは嘘をつくべきでしょうか。強い内集団意識を持つ社会では、公平な正義よりも忠誠心のために嘘をつくことが奨励されます。
- 異なる考え方、異なるやり方、異なる人々に対する偏見。つまり、「違う」ということに対する本能的な反応が否定的です。なぜそれが問題なのでしょうか。偏見は、現実を考慮せずに個人的優越性を前提とします。自分たちの共同体に大きな利益をもたらし得る変化でさえ、重要でない、劣っている、あるいは危険だと見なされます。さらに悪いことに、外部の人々は本質的に重要でない、劣っている、あるいは危険な存在だと見なされるようになります。
弱い文化的アイデンティティ
次に弱い文化的アイデンティティについてはどうでしょうか?
これは多くの場合、グローバリズムと呼ばれます。民族集団志向よりもグローバル志向の社会には、次のような特徴が見られます。
- 成員資格は民族的・文化的集団への所属ではなく、個人が共通のイデオロギー的枠組みに同意できるかどうかに基づきます。例えば国家レベルでは、「この国の憲法と法律を守ることに同意しますか?」という点が基本です。もっと小さな規模、たとえばアパートの賃貸でも同じで、「この契約条件を守れますか?」ということです。個人の集団的背景は関係ありません。グローバルな社会は、人々が社会に参加できる道があるべきだと考えます。
- グローバルな社会では、文化的内集団の外にいる見知らぬ人に対する信頼度が高くなります。誰もが同じ基本的な善悪の枠組みで行動していると想定するからです。同時に、家族であろうと完全な文化的外部者であろうと、すべての個人は同じ価値を持ち、平等に扱われるべきだと考えられます。
- グローバリズムは個人の自由を重視し、それがより大きな革新と全体的な繁栄につながります。既存の慣習がアイデンティティと結びついていないため、個人は自分の集団を拒絶していると感じることなく、新しい考え方ややり方を採用できます。
一方で、次のような否定的側面もあります。
- 人生の目的に対する不安が高まります。グローバルな社会では、個人が自分自身のアイデンティティを作り上げなければならず、それは多くの場合、達成や成果によって定義されます。そのため、それに失敗すると、強烈な自己不信に直面します。さらに、内集団から無条件の支援を期待できないため、困難な状況にあるときには、生存そのものに対する不安を抱くこともあります。
- 社会の基本的枠組みを維持するためのコストが高くなります。より多くの状況を想定した、より長く、より明示的な契約が必要になります。また、執行も上から行われなければならないため、グローバルな社会は治安維持や警備により多くの費用をかける必要があります。
- 抽象的な理念に基づいているため、グローバルな社会はより脆弱でもあります。価値観が急速に変化し、世代間の断絶や社会の分極化が生じやすくなります。
- 最後に、グローバルな社会は、大衆受けを最優先する「底辺への競争」を生み出すことがあります。その結果、道徳性、美的価値、伝統といった、より抽象的な価値が軽視されます。
キリスト教的な視点
最後に、文化的アイデンティティに関するキリスト教の視点を簡単に紹介します。これはキリスト教初期において、非常に重要な問いでした。
- キリスト教は、唯一で全能の神が人間を「ご自身のかたち」に創造したがゆえに、すべての人間が特別で等しい価値を持つと考えます。言い換えれば、人間は神の代表者であり、他者をどのように扱うかは、神への敬意をどのように示すかの反映だということです。
- またキリスト教は、異なる文化集団の存在も同じ神によるものだと認めますが、特定の文化が永続すると仮定することはありません。
- 他の宗教と対照的に、キリスト教には優先される言語や文化がありません。キリスト教の主要な聖典そのものが多言語で書かれており、最初のキリスト者のほとんどはユダヤ人でしたが、キリスト教誕生から20年以内に、どの文化も特別扱いされないという公式な表明がなされました。
キリスト者は、特定の民族的・文化的集団に属するかどうかを気にするのではなく、他者を愛し、イエス・キリストの教えに従うことに集中するよう教えられています。 - キリスト教においては、個人のアイデンティティも文化的アイデンティティも、「キリストに属していること」、そして「キリストに似た者へと造り変えられていくこと」という究極的な中心的アイデンティティを通して捉え直されます。初期キリスト教の指導者パウロは、次のように書いています。
「…あなたがたは、古い人をその行いとともに脱ぎ捨て、新しい人を着たのです。新しい人はそれを造られた方のかたちにしたがって、新しくされ続け、真の知識に至ります。そこには、ギリシア人とユダヤ人…未開の人も、スキタイ人も(これらはすべてさまざまな文化集団です)、奴隷も自由人もありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。」
それでは、テーブルディスカッションを始めましょう。いつも通り、互いの視点から学び合えることを願っています。
